来たとき同様、身軽に塀を跳び越えて華麗に着地……を、予定していた宗仁。
 足下を確認するため目線を下げれば、そこには。

「あぶっ!」
「ん?ってー!」

 「危ない」と全て言い終える間もなく、運の悪い通行人に落下してしまった。通行人の方とて、よもや上から人間が降ってくるなど思うはずもない。彼が疑問符を浮かべ、驚きの声を上げた次の瞬間には、地 べたに人影が二つ転がっていた。
 先に体を起こした宗仁が詫びようと爆撃してしまった相手を見ると、丁度相手も起きあがる所ではある が、その腰には太刀が下がっていた。

――何か、嫌な感じがする。

 宗仁のこういった勘は、かなりの高率で当たる。
 しかし、夜目ではっきりと見て取れないが、それでも骨格からして悪人らしい空気を漂わせた男は、宗仁の予想に反してなにやら親しげに話しかけてきた。

「お前、見ねぇ顔だが、新入りか?
しかし、新入りまでこの件にかんでるとは聴いてねぇんだが……」
「あ、は、はい、そうですそうなんですー、お頭に言われて邸内の様子をー」

 どうやら蘭玉を拉致した一味の下っ端であるらしいその男、塀を乗り越えてきた宗仁を仲間と勘違いし たらしい。
 とっさに頭を切り換えて、しかしかなり上ずった声で同調する宗仁。

「で、首尾はどうだった?」

 そのようなことを尋ねられても、相手の目的が判らないので「なんの首尾」やら見当が付かない。おおよそ訊くことを考えるなら、蘭玉奪還に動き始めた陳孫勝の動き……と言った所であろうか。

「もしかして、兄貴、陳の野郎をざっくりやっちまうおつもりで?」
「……お前、この計画のこと、何も聴いてねぇのか?」

――まずい、地雷を踏んだか。

 そしてこういう時に宗仁が取る行動といえばひとつしかない。

「それじゃ、俺は報告がありますのでお先に失礼します!兄貴も達者で!」
「待ちやがれ、こいつ!」

 宗仁が踵を返した瞬間、男が太刀を抜き放ち宗仁の胴のあたりをなぎ払った。夜目にも逸品であると判 るそれは、宗仁がぶら下げた徳利を砕くに終わり、宗仁の体までは届かない。
 それなりに重量のある徳利を粉砕された衝撃で腕が痺れているが、幸い他に被害もなく、宗仁は徳利を 投げ捨て一目散に走り出した。

「ち、為損じたか……あのなり……間違っても町人風情の着るような代物じゃねぇ」

 どうやら、自分達の計画を妨害する動きがあるらしいことを男は嗅ぎ取った。そして、事態が動き始め た今、自分一人の判断で動くのは得策ではない――下手をすれば首が飛びかねない――事に気が付き、唾 を吐いてその場を立ち去った。
 どのみちその場に居座っていた所で、陳孫勝の身辺警護はそれと判らないとはいえ名だたる凄腕が集ま っているので、返り討ちに遭うのが関の山であることは容易に想像が付くのだが、彼がそれを知る頃には 手遅れであることも、容易に想像が付くことである。


 命の次に大切な徳利(徳利は三番、中身が二番)を粉々にされ、這々の体で逃げ出した宗仁。猿(ましら)もかく やという身のこなしで、建ち並ぶ家の塀を乗り越えては庭を突っ切り、また通りへ……の繰り返し。
 ややしばらく道を走り、たどり着いたのは酒店の裏木戸であった。

「櫓の兄ぃは、まだ御店(おたな)かねー」

 呟きながら、しっかりと木戸に取り付けられている罠を解除し、宗仁は敷地内に足を踏み入れた。

 喜楽の訪れたここは、いにしえの故事をもじり黄鶴楼と名付けられた、曲埠でも有数の店である。大通りを挟んで店舗は二つある。ひとつは旅行者や下町の人々が良く訪れているためにぎやかで、安く家庭料理風の食事と酒を提供している。
 そして、宗仁が訪れたのはそちらではないもう一つの棟で、こちらは対照的に一部の貴族の予約しか受け付けておらず、使う食材も超一流で提供する酒もそこらでは手に入らない逸品ぞろい。料理人も厳選さ れており、生半可な腕では皿洗いさえさせて貰えないという徹底ぶりだ。

 そして、宗仁の目指す相手であり黄鶴楼の主人、櫓快迅は、いつもこちらで賓客の接待にまわっている 。毎日のように賓客が訪れるわけではないが、客のない時は使用人の教育にあてているため、この時間で はまだ仕事(という名の趣味)に明け暮れている可能性が高い。

「今日の菜の残りは何かな〜」

 どうやら長旅の間ろくな物を口にしていなかった所為か、うっかり本題よりも食べ物に気を取られてい る宗仁であった。しかし、残り物を客人に出す主人もどうかと思うが、それは相手が宗仁であるからだろ うということは、この際宗仁の頭にはないようである。
 うっかりすれば鼻歌くらいは歌いそうな勢いで浮かれていた宗仁だが、庭に立つ人影を見て思考を切り 替えた。窓からの明かりに浮かぶ人影は、宗仁の方を向くこともないまま、しかし明らかに宗仁に向かっ て問う。

「何用だ。俺は忙しいのだから、つまらないことだったら簀巻きにするぜ?」
「兄ぃ、そんなにつんけんなさるなよ。
ひとつ、お訊きしたいことがありまして、こちらへ伺いました」

 手短に簪を拾ってからの経緯を櫓快迅に説明し、宗仁は続けた。

「で、兄ぃ、すまないんだが、酒と徳利の余している物はないかい?」
「……普通は情報提供者が礼をもらう物ではないか?」
「だから、不穏な動きをご報告に上がったって事で」
「それくらい俺とて知っている」
「へ?」
「数日前、とある貴族がうちの店で堂々と話していたからな。
まったく、うちの店も客を選んだ方が良いかと思わないでもない」
「じゃ、兄ぃは、心当たり……いや、首謀者の話を聞いていて、計画もご存じ、と」
「そういうことになるがな」
「で?」
「客商売が秘密を守れなくてどうする。
相手がお前だからといって、このようなことを軽々しく口に出来る訳もないだろう」

 基本的には人の良い櫓快迅だが、こと仕事が絡むと人が変わったように手厳しくなるのは、以前からの ことである。宗仁に裏の出来事を話すことも有ったが、どれもこれも過去に決着の付いた物ばかりであっ たのもまた事実だ。

「しかし……」

 一度はすげなく断ったが、櫓快迅は言葉を続けた。

「陳家の頭領にはただならぬ縁と恩があるのでな。見逃す訳にも行くまい」

 あの御仁なら事もなく納めてしまうであろう事は容易に想像は付くが――と、前置きして、櫓快迅はあ る貴族の名を口にした。

 ほう、と宗仁は嘆息した。

「さすが陳家の頭領、……読みの鋭いことこの上ない」
「で、どうするのだ?」

 軽く手を合わせて礼を言ったあと、宗仁は木戸へと向かう。

「そのあたりなら、嬢ちゃんが急に儚くなることもないでしょう。
そうだな……とりあえず明兄と坊主にご報告、かな」
「武運を祈る」
「剣を合わせることがあったとして、それは明兄の仕事です。祈るなら彼に」

 ふと何かを思い出し、宗仁は櫓快迅を振り返った。

「で、酒と徳利、無いですか?」
「……少し待っていろ」

 まったくお前には敵わぬ、と櫓快迅は薄く笑って奥に戻っていった。
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