屋敷に戻った陳偉(陽任)と、ひょんなことから陽任少年の護衛役になってしまった明清華。二人は女中の案内で、陳家棟梁・陳孫勝(ちんそんしょう)への部屋へと向かいます。
「偉です。父上、お話があります」
扉の前で陳偉が扉の内へ声をかけました。返事はありません。
ただ、障子に陳孫勝らしき人影が揺らめくのみ。
「父上、お休み中でございましょうか。偉です。お話があります」
人影は、椅子に座っている様子。何も、お休み中はあるまい。陳偉の言葉に明清華は小首を傾げました。
「父上、失礼いたします」
陳偉は、扉を思いきり良く開けました。そして何故か、開けると同時に明清華を押しながら横ざまに飛びます。
「伏せて!」
鋭く叫ぶと、陳偉は身を伏せました。明清華も、何かが空気を切る音を捕らえ、慌てて陳偉の傍に身を伏せます。
ぶんという唸る音は3つ。そろそろと体を起こすと、部屋の入り口の中央で、キラリと光るものが見えました。それは、大きな大きな斧。3つばかり、刃を前にして振り子のように揺れています。
「父上はお留守だ」
立ち上がった陳偉は、肩を震わせました。それは、たった今乗り切った危機への恐怖のためではありません。大事な娘の危機にも関わらず、父親が留守にしていることへ怒りを覚えているようです。
陳偉は斧を避けて部屋に入りました。
人影に見えたのは、何と切り紙の人形。もちろん部屋の中はもぬけの殻。
卓の上に置き手紙を見つけ、がっくりと肩を落とす陳偉。
「どうした?」
近寄る明清華に、陳偉はぬっとばかり手紙を差し出します。
『偉 (陳偉)
我去朋友家里喝几杯(友人宅へ飲みに行く)
接下来的事 就交給尓自己処理(後は よしなに)
孫勝 』
流石の明清華も、呆れて言葉が見つからない。
「宗喜楽哥々は手がかりを掴んでくださるだろうか」
明清華を見上げる陳偉の目には、ありありと不安が浮かんでいました。
「腕っぷしは空っきしだが、彼の情報網は一流だよ」
明清華が慰めます。陳偉は小さく溜息を吐きました。
「女中に部屋を用意させる。明清華殿どうか、こちらにお泊まり下さい」
立ち上がり軽く頭を下げると、陳偉は召し使いを呼びに廊下へ出ました。
きびきびと、斧の始末と部屋の準備を命じる陳偉は、少年と言えども、貴族の長男としての威厳が感じられます。
陳家の人間なのに、普通の人のようだと、まだ薄い陳偉少年の後ろ姿を、明清華は好ましく見守ります。いや、この家で常識人であろうとするのは、さぞかし苦労が多いのだろうと、月明かりに光る斧と、歳の割には大人びた少年を比べ見て、小さく笑いを漏らしました。
一方、明清華たちと別れた宗仁は、とあるお屋敷の塀を乗り越えました。
屋敷の中ですれ違った召し使い達は、薄汚れた宗仁の姿に眉をひそめます。が、それが宗仁だと認めると、深々と頭を垂れました。
何を隠そう、宗仁は、この宗家の第2子にして、先代宗家当主の唯一の正妻の子供です。
現在は長兄が家を継ぎ、宗仁は気ままな冷や飯食いとして風来坊を気取っています。
その長兄は、包叔判官の片腕として曲埠にこの人ありと言われる、宗良その人。字は子房。母は違うといえども、宗仁の一番の理解者でした。
もちろん、街で宗良と宗仁の関係を知っているのは、ほんの数人。宗仁も、この宗家の屋敷に足を踏み入れるのは年に一度あるかないか。
ですが、旅から帰ったばかりの宗仁にとって、陳家ともいった大貴族の情報を仕入れるには、ここ以外にありませんでした。
細心の注意を払って屋敷に忍び込んだ宗仁は、兄へ面会を求めます。
「いきなりの訪問だね。仁弟々」
宗良は、酔っているのか、頬をほんのり桜色に染めて宗仁を迎えました。
「哥々すまない。客が来ているとは思わなかった。用が済んだらすぐにここを出るよ」
普段、めったに酒を飲まない兄が酔っているのは、客がいるからだと見当を付け、宗仁は開口一番、宗良に謝ります。
「そんなつれないことは言わないでおくれ。私がお前の役にたてるのなら、力を惜しまないことぐらい、とうの昔に知っているだろう?」
一方、宗良も弟が自分を訪ねるのは、何かあったときだけだと充分承知。宗仁は苦笑すると口を開きました。
「陳家にここ最近、強い恨みを持っている人に、心当たりはないだろうか」
宗仁が連れ去られる陳蘭玉を見かけ、簪を拾ったのは、呂台小路から貴族の屋敷が立ち並ぶ金城地区へ向かう道でした。盗賊達の隠れ家が、広い広い貴族の家の一角だった。ということが、実は珍しくはないと、宗仁は宗良から聞いたことがあります。古馴染みに教えてもらい、陳蘭玉を攫った賊の正体は掴んでいましたが、裏で貴族が糸を引いている可能性は捨て切れません。
宗仁の言葉を聞いて、宗良はにっこりと微笑みました。
「そういうことは、本人に尋ねなさい」
そして、ついて来いと手招きします。
果たして、客間に居たのは先程別れた陳偉そっくりの男性。
「陳玄鬼(陳孫勝の字)殿。愚弟が貴方に質問があるそうです。もし、よろしければ、お答え頂けますでしょうか」
「宗仁と申します」
頭を下げる宗仁を一目見て、陳孫勝は笑みを浮かべた。
「陳孫勝です。愚息が貴方に迷惑をかけた様子。恐れ入ります」
一目で宗仁がここへ居る理由を見抜いた陳孫勝。その眼力に宗仁は一種の怖れを抱きました。
「では、私の質問もお分かりでしょう」
陳孫勝は酒で口を潤してから、徐に話し始めました。
「我が跳ねっ返りを保護しそうな貴族、ねえ。良い意味で管太師、包判官、白史大夫。悪い意味では帝弟・阿南、宰相・楚、……」
陳孫勝が列挙した貴族の名前に、宗良は苦笑を隠し切れませんでした。どの人どの人も、黒い噂のある貴族ばかり。それも、何の迷いもなく金でごろつきを雇う貴族ばかりです。
その中の一人に、宗仁は心当たりがあった様子。片方の眉をぴくりと動かすと、陳孫勝が貴族の列挙を終えると同時に、礼を述べてすぐさま屋敷を後にしました。
「令弟(御弟)に護衛をつけないのですか?」
宗仁を見送って、陳孫勝が尋ねます。宗良は肩を竦めました。
「愚弟は尾行を巻くのが得意なので」
さもありなん。と、陳孫勝は頷きます。
「愚息ならば、跡をつけるのは簡単ですよ」
宗良は頭を下げました。
「すぐさま、令郎(御子息)に私の部下から護衛をつけましょう」