一方こちらは陳家で連絡を待つ明清華と陳偉。待てど暮らせど虫の便りもありません。
 とうとう、しびれを切らして陳偉が立ち上がったとき、家人が陳偉の前へ頭を下げました。
「喜楽様からの伝言を預かっている方がお見えになりました」
 陳偉は、大声で叫びたいのをぐっと堪えて家人に告げます。
「ここへ通せ」
 果たして、現れたのは泥だらけの服を纏った人足。初めて入る貴族の家は、珍しい物ばかりなのだろう。きょろきょろ辺りを見回してばかりで落ち着かない。
 はやる心をぐっと堪える陳偉。相手は人足とは言え、自分より年上の人。丁寧に頭を下げて、人足に話しかけます。
「私が陳偉。陳孫勝の長男です。私に宋喜楽殿からの言づてがあるそうですね。彼は、貴方に何と言付けましたか」
 びっくりしたのは人足の方です。タダでさえ綺麗なお屋敷に通されて落ち着かないのに、その家の坊ちゃんから、丁寧な口調で尋ねられたのです。しかも相手は、今の皇帝に血縁のある貴族様。棒立ちになって、返事をする事もままならず、目を白黒させるばかり。
 陳偉は、深く息を吸い込むと、腹に力を入れます。ゆっくりと息を吐いて、再び尋ねました。
「喜楽兄は何と申されましたか」
 なんとか喜楽の言葉を聞き取った人足。
「へぇ」
と、間の抜けた返事をして、懐から紙を差し出しました。
 家人の手を通してその紙を受け取った陳偉。紙を破らんばかりの勢いで、折りたたまれた紙を開きます。
 次の瞬間、がっくりとうなだれてしまいました。うなだれたまま、明清華に紙片を回します。椅子に座って一部始終を見ていた明清華、腕を伸ばしてその紙片を受け取りました。
 詩編に書かれていたのは、短く2行。
『今夜9時
 維水、下港辺りの上』
「これは、今夜ここまで来いということだろうな」
 頷くと同時に深く溜息を吐く陳偉。家人に手で、人足を返せと示します。
「陳陽任、ちょっと待て」
 明清華は声を掛けました。退出しようとした家人の動きも、目で止める。
「こういうときは、報酬を渡すモノだぞ」
 明清華の言葉に陳偉ははっと我に返ります。困惑を顕わにして、明清華へ振り返りました。
「幾ら渡せばよいモノでしょうか。私はこういう事は慣れぬ故、報酬の見当も付きません」
 真っ正直に明清華に尋ねました。
 こういうところは、まだ、子供だな。と、ほほえましく思いながら、明清華は少し考えます。
「金の小粒か、銀貨5枚ぐらいだな」
 なるほど、と、頷きながら、陳偉は人足の目に浮かんだ不満の色を見逃しませんでした。
「この方を見送る際、金貨を5枚渡して下さい」
 家人に言いつけ、人足に向き直ります。
「わざわざ届けて下さいまして、ありがとうございます」
 頭を下げて、礼を言いました。
「なあに、大したことじゃぁありやせん。また、なんかあったら、あっしを使ってくだせぇ」
 ほくほく顔で退出しました。
 人足が退出すると同時に、陳偉の表情が一転します。思い詰めた表情で明清華に告げます。
「父上の部下に頼んで、軍船を用意させます。何隻ほど必要でしょうか」
 思いも掛けない相談事に、明清華は言葉を失いました。

 頃は9時をしばらく過ぎた時刻。真っ黒な流れの上へ小舟が一艘滑り出します。
「しかし、喜楽の兄ぃ。なんだって突然、こんな時間に繰り出すんで?」
 櫂を漕ぐ船頭が尋ねます。彼は、黄鶴楼料理人の一人。当番の時間が終わって街へ繰り出した所を、宗仁に捕まって、何も知らされないまま船頭をさせられていました。元船乗りの彼は、料理人としては下っ端でも櫂を漕ぐ腕はたいした物。音もなく真っ暗闇の中を進みます。
「面白いことが起こるのさ」
 黄鶴楼の櫓主人から黒幕を、兄からその黒幕と繋がっている悪党を、そして馴染みのちんぴらからその悪党が密かに船の用意をしているとの話を聞き出した宗仁。自分の仕事は聞き出すまでと割り切って、手紙を陳偉に届けさせると、自分はしっかり高みの見物を決め込みました。腰には徳利と酒、手元には菜の入った包みまで。準備万端整えて、一番見物しやすそうなポイントへと移動の最中。
 ふいに船足が止まります。
「どうした?」
 尋ねる宗仁に、船頭は唇に人差し指を立てて示しました。
「兄ぃの言った場所に、船がいるんでさぁ。あれは、お上の船ですぜ」
 真っ暗闇の中、宗仁には何も見えません。が、闇になれている船頭の言葉に嘘はないはず。鼻の頭にしわを寄せた宗仁。ふんっと鼻を鳴らすと、別の場所を船頭に告げました。もちろん、見物するための第2の場所。
 船頭は肩を竦めて、再び櫂をこぎ始めました。

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