一瞬の間の後、忍び笑いが起こった。
くっくっと言う声の方を見ると、そこには喜楽の肩をふるわせる姿が。
「なんだ!何がおかしい!」
少年の苛立ったような問い掛けにすっかり乗り気になった喜楽の応え。
「坊主、陽任とか言ったな。そんなにこの簪の主が気になるか?」
「貴様…!」
「俺たちに何かして、この簪のお嬢ちゃんに何かあっても俺は知らないぜ?」
喜楽はすっかり賊気取り。挑発するような表情の中に、瞳は笑みを湛えて。
陽任は剣の切っ先を明清華から宗仁へ向け直す。
「妹は、蘭玉はどうした!答えによっては容赦はしない!」
そして今まさに喜楽へ斬りかからんとしたところに。
「少年、誤解だ」
間に割ってはいるのは清華。
「何が誤解だ、賊め!」
打ち込まれる剣をあっさりと太刀で流して清華は続ける。
「喜楽、お前が悪い。どうしてわざわざ誤解させるんだ」
「いや、面白そうだと思ったから…」
悪びれずにけろっとした顔でそう答える喜楽に向かって盛大なため息を一つ付く清華。
「人で遊ぶのはお前の悪い癖だ。ところで少年、…陳陽任とか言ったな。これは、君の妹御の物なのか?」
「さっきからそうだと言っている!」
「少し落ち着け。座って茶でも飲んで、ゆっくり話を聞こうじゃないか」
「明兄」
「喜楽。お前もだ。だいたいこの話を最初に持ち込んだのはお前だろう?」
「…明兄、協力してくれるか」
「乗りかかった船だ。下りるわけにもいくまいに」
陽任は少し話が見えてきた様子。
「と言うことは、お前たちは賊ではないのか?」
「ああ、当たり前だ。こいつの悪ふざけで誤解させてしまったが、むしろこの簪の持ち主を捜すところで」
「…それは失礼なことをした。
 改めて名乗るが僕は陳陽任。その簪は僕の妹、蘭玉の物。
 蘭玉は…僕が言うのもなんだがおてんばで、しょっちゅう家を抜け出しては
 治安の悪いところにでも平気で行ってしまうんだ。
 今日も出かけて、いつもの時間に帰ってこないから妹のよく来るこの通りにきてみたんだ」
「すると、この簪を持った喜楽がいた、と」
「へえ、こんな大通にこんな簪を付けて、君の妹御は遊びに来るのかい?…それは警戒心がなさすぎるね」
「喜楽、そういう問題ではないだろう、今は」
「はいはい。明兄は真面目だね」
「お前が悪ふざけがすぎるんだ…。そして陽任、賊に狙われるような心当たりはないのか?」
清華の問い掛けに陽任はしばし考え込む。
「いや…最近何も変わった様子はなかったし…。それらしい兆候も全くなかった」
清華と喜楽はしばし沈黙する。
「となると、たぶん金目的だね」
幾分楽しげな口調の喜楽に清華は睨みを利かせて口を開く。
「まあ、こんな通りをこんな高価な簪を付けて歩いていたら、狙われるのは当然かもしれないな。
 しかもここに来るのは初めてではないのだろう?それなら前から狙われていた可能性はある」
訪れる沈黙。
そしてその沈黙を破ったのは喜楽。
「まあ、心当たりがないのなら、こちらからは動きようが無くなってしまったね」
「呂台小路あたりにはごろつきがたむろしているからその辺を探れば手がかりはつかめるかもしれないが
 陽任を連れて行くわけにも行かないし、ましてやこの時間だ。私たちだってあの通りは危ない」
「しかし蘭玉は今頃どんな目に!」
「金目的なら手荒な真似はしないさ。陽任はすぐ興奮するな。それは少し直した方が良い」
「そうそう。あまりかっかかっかしなさんな。寿命が縮むぜ?」
「喜楽、お前は逆にお気楽すぎるがな」
「おお怖い」
ふざけた様子で肩をすくめる喜楽。
いつものことなのか気にもとめた様子もなく清華は陽任に言った。
「そういえば自己紹介がまだだったな。私は明清華。こっちのお調子者が…」
「お調子者は酷いな、明兄。宗喜楽。宜しく頼むよ、少年」
「では改めて。僕は陳陽任。陳家の長男だ。妹のことを…協力して欲しい。お願いする」
「陳家って、あの有名な陳家かい?」
「曲埠で陳家と言ったらうちくらいのものだろう」
「参ったな…よりによって賊が狙っていたのは陳家のお嬢さんだったとはね」
喜楽は額に手を当てて天井を仰ぐ。
そう、陳家はここ曲埠でも有名な貴族の一家。
もっとも、有名なのはその権力や財力ではなく、当主の変人ぶりに寄るところが大きいのだが。
「とりあえず、今日この時間では動きようがない。むしろ動けばこちらの身も危ない。
 家まで送ろう、陽任。喜楽、帰ってくるまでここで待っていてくれるか?」
「いや、僕は一人で帰れる。それより呂台小路というのは何処だ?」
「教えられない。今教えたら君一人でつっこみかねないからな。こんな時間に君みたいなのが
 一人で歩いていたら危ないことこの上ない。…君はもしかしてそれでも一般的な家庭の 
 少年の振りをしているつもりか?」
「…何か、おかしいだろうか?」
「服が新しすぎるのとその剣の立派さは普通の家の子供の物ではないね。ごろつきは
 そういうところはめざといから、今から一人で君がつっこんでは、妹御の二の舞になるよ」
茶で口を潤し、喜楽は告げる。
「すべては明日、朝になってから動こう。やれやれ、久しぶりに曲埠に帰ってきたなりこれとはね」
「普段の行いだ。では陽任、行こうか」
「ああ…すまない。重ね重ね、非礼を詫びよう。そして、協力をお願いする」
「ま、俺はともかく明兄がいるんだ、大船に乗った気でいてくれ」
「喜楽、そのお気楽さはどこから来るんだ?」
「だって、明兄、そうだろ?下手な漢より、明兄の方がよほど頼りになるからね」
一瞬きょとんとする陽任。
喜楽の言葉を理解しかねている様子。
ああ、と喜楽は言う。
「明兄はこう見えても立派な女性だよ。もっとも、もてるのはもっぱら女性相手だけどね」
「あなたは…女性だったのか。僕はてっきり男性かと。もし失礼な物言いがあったら許して欲しい」
「いや、気にしなくていい。むしろ漢に見せているところもあるから。いい加減遅い。もう行こう」
「では明日、迎えに行くよ、少年」
「陽任だ」
「はいはい、陽任。すべては明日からだよ」

曲埠の絹金大路からさほど遠くないところに陳家の屋敷はある。
「若君!こんな時間にどうなされたのですか!」
到着するなり杖身(護衛)が声を上げる。
そして剣を抜く。
「そこの物!我が若君とはどういう関係だ?答えによっては容赦はしない!」
「止めないか。この方は明清華殿。遅くなってしまったから絹金大路から私を家まで送ってくれたんだ」
「…それは失礼しました。ではお通り下さい。主人も若君の恩人となれば、
 ご挨拶の一つもしとう御座いましょうから」
「では失礼して、お邪魔させてもらおうか」
「清華殿、父上に蘭玉のことを説明していただけるだろうか?」
陽任は初めて年相応の不安げな表情を浮かべる。
「私一人では…上手く説明できないと思うんだ」
「初めからそのつもりだ。こんな遅い時間に無遠慮だとは思うが、君の父君にお目通りを願いたい」

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