草色 青々として 柳色 黄なり 
 桃花 歴乱として 李花 香ばし 
 東風 ために愁いを吹き去らず 
 春日 ひとえによく恨みを惹いて長し(春思 賈至) 

 その日の夜、明清華は酔えずにいた。大きな謎が明清華の心を捕らえて離れなかった。 
 それは、芳兼成の目だった。 
 陶家を去るとき、芳兼成と目が合った。彼は、ただ黙って口を閉ざし、真摯な瞳で明清華を見ていた。明清華は彼と
視線が合ったとき、にっこりと微笑んで頭を下げた。 
 芳兼成も微笑んで頭を下げた。だが、その直前、彼は酷く哀しそうな表情をした。ほんの少し眉を下げて、ほんの少し、
目蓋を閉じた。それだけで、芳兼成が感じた深い絶望を表現するのは十分だった。 
 芳兼成が見ていたのは、明清華だと思う。そのとき、明清華の傍には誰もいなかった。だが、そうだとすると、彼が絶望を
感じた理由が分からない。明清華は芳兼成に気付いて挨拶をしただけだ。普通に。 
 それが気に入らなかったのだろうか。明清華が、剣を抜いて踊ってみせれば、彼は満足したのだろうか。それとも、余計な
軽口を叩けば良かったのだろうか。 
 それとも、花街の娘のように頬にくちづけすることを、芳兼成は望んだのだろうか。 
「馬鹿々々しい」 
 明清華は、口に出して言っていた。杯へ酒を注ぐ。八分目ぐらいに注がれた杯を、明清華は一気にあおった。 
 芳兼成には、陶梨花という可愛い恋人がいるのだ。明清華が色気を出したところで、陶家の人に不快感を感じさせるだけ
だ。なによりも、明清華は、そんな色気のある仕種は不得手として来た。 
 第一、芳兼成が色のある別れを望んだとは限らない。 
「お客様」 
 気がつくと、爵(しゃく)の中の酒を空にしていた。 
「いかがいたしますか?」 
 確か、これで3つ目の爵を空にしている。普段飲む量はとうに過ぎていた。酔ってはいないが、流石にこれ以上飲むのは
危険だと、現実に戻り切れない頭で考える。 
「ああ、勘定を」 
 夜風が少し、肌寒かった。夜半を越えて、人がまばらな街を歩く。 
 明清華は無意識のうちに腰の剣を探った。そう遠くはないとは言え、明清華の宿までは裏通りを通る必要があった。決して
安全だとは言い切れない。 
 曲り角を曲がったとき、目の前に人がいた。 
「あっ、すまない」 
 道の中央へ歩を進めて、その人を避ける。男の方は明清華に避けられて、たたらを踏んだ。 
 くるりと振り返る。目に怒りがあった。明清華を睨む。 
「何だよ、お前、どこに目を付けているんだよ!」 
 声を荒げて、明清華に近付く。明清華は、男を睨み返した。 
「ぶつかってはいない。お前にそう言われる筋合いはない」 
「なんだと、生意気なんだよ、女!」 
 つかみかかってきた男の手を、鞘付きの剣でたたき落とす。 
「この野郎!」 
 相手の男は、酔っているのではないようだ。だが、怒り心頭に達していることは確かだ。やっかいだな。どこか冷めた目で明清華は
思った。剣の柄を握る。 
「助けてえ、どろぼうよお」 
 声がして、男の気を削いだ。明清華も、声の方を見る。 
 声がした方の闇から、男が駆けて来た。何かの包みを抱えて、明清華の後ろを走り去る。 
 『泥棒!』とっさに思った。明清華はその男を追い掛けた。 
「逃げるのか、卑怯だぞ!」 
 後ろで喧嘩を売って来た男が叫ぶ。だが、明清華にはその言葉は届かなかった。 
 泥棒の足は速かった。それに、この辺りの地理に詳しいらしい。路地から路地へと自在に曲がった。 
 何度か見失いそうになって、やっと、街灯の下でその泥棒を捕まえることができた。 
 腕を捻り上げる。 
「痛い、痛い、痛い」 
 泥棒の声に聞き覚えがあって、明清華は捻る手を緩めた。 
 泥棒が抱えていたのは、男物の外套だった。 
「まさか、一人、芝居、か?」 
「そおよぉ」 
 声色を作って、男が答える。端正とも言える男の顔と、その口から発せられた甲高い声は、ものすごく不自然だった。怖気が走って、
思わず明清華は男の手を振り離す。 
「気持ちが悪い」 
「あら、悪かったわね」 
 道ばたに座り込んだまま、男は明清華を見上げた。膨れっ面を作っている。「物まねが下手」ではない。確かに声だけ聞くと、とある
良家の夫人の声に良く似て聞こえた。 
 笑いと酔いが込み上げて、明清華は意識を失った。 

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