梨花春乱3
二枚草で出来た吹口を震わせて、哨吶(スオナ)が華やかさを演出する。底抜けに明るいその音で、
異国情緒溢れるメロディーを奏でる。
明清華はくるりと回ると、メロディーの合間に持っていた鐃(シンバル)を打ち合わせた。そして、またくるりと回転する。
長い髪が流れ、赤い円を作る。
明清華を助けた男は、近くの食堂の女主人に明清華を預けると姿を消した。あれから一月、経っている。
明清華は踊子と言う身分がら、街の色々な所に呼ばれて踊りを披露していた。あるときは貴族の屋敷で、あるときは、
今日のように大きな料理店の片隅で。そしてあるときは、街の広場で。
街にいるときは、できるだけその男の姿を探している。だが、まだ、彼は見つからなかった。もう、この街にはいないのかもしれない。
だが、明清華は諦めなかった。彼は他所者にしては、この街の地理に詳し過ぎた。殆ど勘に近い根拠だったが、それを頼りに彼を探し続けた。
曲が終わり、明清華は頭を下げた。近くの卓(テーブル)から拍手が鳴る。明清華は一度、幕の裏に下がった。次の踊りの準備を始めるためだ。合間に、笛がこの地方の民謡を奏でる。
「鹿老師、こちらの卓です」
雑然とした店の中で、何故、その声に気付いたかは分からない。だが、幕の間からのぞいてみると、果たして芳兼成が店にいた。
師らしき老人を案内し、奥の大きな卓へ向かっている。
ふいに、店の雑音の種類が変わった。ある種の緊張に包まれる。
「鹿柴(ろくさい)!お前は、」
店の入り口近くで男が仁王立ちに立つ。その男の視線の先には、芳兼成と鹿老師と呼ばれていた老人がいた。それだけで、
明清華は飛び出していた。
「お前は今度の試験で不正を働いた。お前の所為で俺は試験に落ちたのだ。その悪しき所業、天に変わって成敗してやる」
男が匕首(短剣)を手にしていると知ったとき、明清華は鐃を置いて来たことを悔やんだ。同じ金属製の鐃ならば、十分な武器になったから。
駆け出した男、逃げる客。その客をかき分けて、明清華は男の前に飛び出した。衣装の冠を男へ放り投げる。冠飾りや色とりどりの布が
男の前でふわりと広がった。
思わぬモノに視界を遮られ、男は思わず足を止める。そこを狙って、客の一人が男の足を椅子の足でからめ取った。ふいっと男の背の方へ
持ち上げる。男は派手な音を立て、顔から床へ突っ込んだ。
匕首は男の手を離れ、宙で放物線を描いた。明清華はそれを扇ですくい取った。素早く右手に匕首を持ち替えて、男に近付く。
「己の無能を他人の所為にするような役人は、こちらから願い下げだ」
床の上にうずくまって痛みを堪える男。その男を明清華は見下ろした。
「そうそう。それに、この店は武器の持ち込み禁止だよ」
男の足をすくい取った客が言う。明清華はその客の顔を見て驚いた。過日、明清華を助けてくれた人物だ。ずっと探していたのに、
見つからなかった『彼』がここにいた。
「にゃにふぉ(何を)、ふぉどりこひぜいふぁ(踊子風情が)!」
怒りで顔を真っ赤にして、といっても鼻血で既に半分ぐらい赤かったが、男が立ち上がった。
とっさに明清華は身構える。が、明清華を庇うように人が割って入って、男を殴りつけた。男は今度は背中から仰向きに倒れる。
「明姐を侮辱するのは許さん!」
明清華の前で叫んだのは、芳兼成だった。
「ちょっと兄さん、彼には聞こえていませんよ。気絶しています」
客がしゃがんで、男の前で手を振る。彼の言う通り、男は気絶していた。
明清華の前で、芳兼成の全身から力が抜ける。
「2階に運んで、彼の家の者に運ばせましょう」
店の人間が出て来た。調理人らしき人物に命じて、テキパキと倒れた男を運び出す。
「身元が割れている?」
客が店の人に尋ねる。彼は店の人間とも懇意なようだった。
「あの、」
明清華が『客』へ声をかけようとした瞬間、後ろから声をかけられた。
「明梨花、明家の小花(子供の頃の字)ではないのか?」
その言葉を聞いたとき、全身に冷水を浴びた様に感じた。おそるおそる振り返る。鹿老人が明清華を見ていた。
「確かに、その泣き黒子。確かに、小花は昔から剣術が達者だった」
見覚えのある顔。無くしたはずの名前。無くしたはずの声。葬ったはずの過去。溢れるそれを押さえ込む。
明清華は左手で右手を包み、手を合わせると跪いた。鹿老人へ頭を下げた。
「私は明清華。街の踊子です。立派な先生から懐かしんでもらうような過去は持っておりません。次の舞台が始まるので、
これにて失礼いたします」
一息で言う。明清華は逃げるようにその場を立ち去った。
鹿老人の記憶は間違っていなかった。その昔、明清華が子供で小花と呼ばれていた頃、鹿老人は明清華と彼女の弟の家庭教師として
明家に通っていた。だが、その明家は影も形もない。小花も、屋敷が火事になったときに死んだことになっていた。
舞台に向かい様、客がいた方を振り返ると、彼の姿はもうなかった。あんなに近くにいながら、またもや、明清華は彼に礼を言いそびれてしまった。
「くそっ」
明清華は小声で悪態をついた。彼を見失っただけではない。借りを倍にしてしまったのだ。
「名前ぐらい聞かせろ」
吐き捨てるように言って、明清華は幕の内側に駆け込んだ。
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