舞台を終えて帰るとき、『客』の姿も、芳兼成の姿も食堂には無かった。明清華達の舞台が終わりかけたとき、 座敷に来ていた貴族が、楽の音に惹かれて、明清華達を彼等の座敷に呼んだから。 「やはり」 期待していたつもりは無かったが、一抹の寂しさを覚える。 「ごくろうさま」 報酬をもらって、楽団の人達と別れる。楽団はこの食堂付きの楽団であって、呼ばれればどこへでも行く明清華と、 いつもは一緒でない。 明日の仕事は決まっていなかった。 左手で報酬の重さを確かめる。貴族は、多額の報酬を明清華達に与えてくれたようだった。 「休み、取ろうかな」 急に空腹を覚え、明清華は路地を大通りの方へ曲がった。真夜中近くでも、大通りには幾つか屋台が出ていた。 饅頭を蒸す匂いに誘われて、屋台の一つに近付く。ちょうど、買い物を終えた男性が振り返る。二人とも 引きつったように足を止めた。 「すみません」 男の方が先に言った。両手の饅頭を持ち上げるようにして明清華を避ける。 「兼成様?」 驚きで、心臓が跳ね上がる。饅頭を持った男性は、芳兼成だった。 「あ、明姐」 芳兼成も、目を丸くした。すぐに笑顔になる。 「どうです?」 芳兼成は明清華に手にした饅頭の一つを明清華に差し出した。明清華が答えるより前に、明清華のお腹が 鳴る。明清華は赤面した。 笑いながら芳兼成は改めて明清華に饅頭を渡した。明清華は素直に受け取った。 黙ったまま、並んで大通りを歩く。明清華は歩くことと饅頭を食べることに集中していたので、その沈黙を 沈黙と感じなかった。 「明梨花は10年前、お屋敷の火事で亡くなったそうですね。鹿師父がおっしゃって下さいました」 なんとなく、そのことが話題になるだろうと予測はついていた。『沈黙』が語っていたのかもしれない。 「そうですか」 だから、不必要な関心も不自然な無関心も面に出さずに済んだ。 「ただ一人、生き残った子儀という名の男の子は、明家と知己の白家の養子になったそうです」 「生き残りが居たのですね」 知っていた。そして、明清華は父母を殺したのが白家の主人、白靖儀であることも知っていた。 あの夜。血に濡れた刃を持って、酷く哀しそうな顔をしていた白靖儀。 「すまない、兄者」 白靖儀の刃を胸に受けて、呟いた父。 明梨花の父は地方の役人だった。梨花と子儀の姉弟には優しかったが、決して良い役人ではなかったらしい。街の 人の恨むような目。何度も諌めに来た白靖儀。その度に、父母は白靖儀と大声で喧嘩をした。 白靖儀は父を殺したくはなかった。だが、父が生きていては人々のためにならなかった。 幼くとも梨花は、そのときの父の顔と白靖儀の顔を見ただけで、それを理解することができた。そして、それを事実として 受け入れるだけの年月を過ごすことが出来た。 多分、白靖儀が本気で殺意を抱いたのは、明梨花が『すべて』を知っていると知った、そのときだけだったろう。混じり気 なしの殺意に怯え、明梨花は今まさに焼け落ちようとする屋敷へ逃げた。今思えば、白靖儀も怯えただけだったと理解 できる。明夫妻を殺し、屋敷に火を付けたのは、盗賊ではないのだという真実を知られて、白靖儀は己の罪に怯えたのだ。 だが、明清華は明梨花に戻ることはできなかった。 今の明清華には、祈るしかできなかった。弟に全ての真実を受け入れるだけの豊かな心が育って下さいと。そして、できること ならば、明子儀が一生、真実を知らずに済むようにと。 「明姐、明梨花に戻りませんか?そして、役人の妻として生き直してみるつもりはありませんか?」 弟のことを考えていたからだろう、明清華はその言葉を深く考えずに即答していた。 「できません」 明子儀が『真実』に近付く手がかりになることは、許されない。 「では、明清華のままで良いので、役人の妻になりませんか?」 深い喪失と混乱の中で、明清華を助けたのは偶然、その場に居合わせた旅の一座であり、厳しい踊りの修行だった。役人の 家に嫁入りしたら、踊子ではいられなくなる。 「残念ながら、踊りを止めることはできません」 芳兼成は酷く哀しそうな顔をした。あの日と同じ絶望が、心の底から目へ溢れていた。 そこで初めて、明清華は芳兼成の言葉の真意に気付いた。火が着いたように顔が火照る。心臓が高鳴った。芳兼成の、 哀れみを請うような、何かを期待するような目。その目から視線を外せなかった。 同時に、街灯が作る長く黒い影が明清華の視界の端を走った。風に揺れる火影は、陶梨花の長く黒い髪を連想させた。 ぼけるしかない。一瞬で腹を括る。 「春になったら自分が結婚するからと言って、私まで所帯持ちにさせたいのでしょう。生憎ですが、私はまだ、独身を謳歌する つもりですよ。それに、春になったら地方へ旅に出ようと誘われています。私も、私の芸を磨くために、その話に乗ろうかと 考えています。惑わすようなことは、おっしゃらないでください」 芳兼成が泣きそうな顔をする。明清華は、今言ったばかりの言葉を捕らえて、跡形もなく粉々に斬ってしまいたい衝動にかられた。 back top next