「明姐!」 明清華を呼ぶ声が、膠着した明清華を救った。 声の方を見上げると、『あの男』が窓から明清華へ手を振っていた。どうやら明清華と芳兼成は彼が 飲んでいた飲み屋の真下で、立ち話をしていたらしい。 「旅の仲間が呼んでいます。芳兼成様、私はこれで」 返事を聞かずに、明清華は飲み屋に入って、2階を目指した。 『彼』が居た部屋の扉をあける。 「お邪魔でしたか?」 明清華の顔を見るなり、彼は尋ねた。明清華は軽く首を横に振る。 「いや、助かった」 心から礼を言った。 彼は窓を閉めた。そして、明清華に近付く。明清華の耳元に顔を寄せて、囁いた。 「役人の旦那を捕まえるならば、今の内ですよ」 明清華は目を閉じ、微笑んだ。吐息を吐いて首を横に振る。 「役人の妻など、性に合わぬ」 彼はぷっと吹き出して、豪快に笑った。明清華も、何故か、笑い出したくなった。込み上げる笑い に身を任せ、声をあげる。 涙を拭きながら、明清華は彼に言った。 「また、助けられたな」 彼は酒を注いだ杯を明清華に渡した。そして、覗き込むように明清華を見上げた。 「本当に、そう、思っていますか?」 明清華は目を瞬いた。初めて、彼の『本気』を見たような気がしたからだ。 「ああ」 明清華が頷くと、彼は、ぱっと表情を明るくした。 「恩に、着ています?」 悪戯をするような目で彼は尋ねる。明清華は小さく吐息を吐いた。 「当たり前だ。かえせる方法があったら、何でも言ってくれ」 彼は小さく口笛を吹いた。「好!」喜びの声も挙げる。 「では、旅の一座に入りませんか?」 とっぴょうしもない言葉に、明清華は面喰らった。ただ、目を丸くしていると、彼は改めて尋ねた。 「俺の知り合いの一座が、踊子を探しているんです。幸い、明姐は契約した楽団がいない。それに、」 明清華は苦笑した。彼の真上で芳兼成と話していたのだ。夜中に話すには、大きめの声で話してい た記憶がある。 「当てもないのに『旅に出る』と言ってしまった。だが、その一座の踊子はどうしたのだ?」 彼は大袈裟に肩を竦めた。 「つい先日、逃げられてしまいました」 「また、何故?」 「彼女は踊子よりも、貴族の妾になりたかったようで」 それが普通だろうな。そう考えて、明清華は再び苦笑するしかなかった。 「私と反対だな」 彼は大きく頷いてから、不安そうな表情を作った。 「先約がありましたか?」 探るような口調に明清華ははたと気付いた。 「先程、旅の一座に誘われていると言ったのは、とっさの嘘だ」 彼は口の端をニッと引いて笑みを浮かべた。明清華の答えは、想像していたようだ。 「で、それを本当にする気はありますか?」 「私の気は、あるが」 どうしても語尾が自信なさげに小さくなる。明清華の様子に、彼は感じる物が合ったようだ。彼 は手を打つと、なるほどとでも言いたげに、首を上下に動かした。 「あ、そうか、貴方と彼等の相性ってモノもありますね。じゃあ、一度、会ってくれませんか?」 『俺の顔を立てると思って』ねだるような目が、言外に臭わせる。 「いつ?」 明清華が尋ねると、彼はちらりと外を見た。漆黒の闇が真夜中に近いことを示して居た。 「あした」 明清華は微笑んで手にした杯を軽く掲げた。彼ならば『明日』と言うだろう。なんとなく、そん な気がしていた。 「よいだろう。明日」 お互い、杯を干す。そして、帰りかけた明清華はふと、振り返った。 「そう言えば、貴殿の名前を聞いていなかった。名は?」 彼は満面に笑顔を浮かべた。 「姓は宗、名は仁。皆は俺を喜楽と呼ぶ」 「では喜楽。また明日」 back top next